
すみれ(前編)
※連載小説「リリィ」は、金城学院大学を舞台にした物語です。
この物語はフィクションであり、実在の人物とは関連がありません。
登場人物
笹川ユリ:この物語の主人公。金城学院大学1年生。
ナゴミ先輩:ユリの憧れのお姉さん。金城学院大学4年生。
おばあちゃん:ユリの祖母。
------------------------------------------------------------------------------------
マスターから分けてもらったコーヒー豆を、ゆっくりとミルで挽いていく。ゴリゴリと豆を挽く振動が手のひらに伝わってくる。ペーパーフィルターをコーヒーメーカーにセットして、いつもよりも少し多めに挽いた豆を慎重に移していく。口先の細いケトルから熱い湯が流れ出る。水分と蒸気を含んだコーヒー豆が香ばしい香りとともにふんわりと膨らむ。私は、手首を優しく回しながら、できる限りゆっくりと湯を注ぎ続ける。ドリップが終わると、私と祖母のそれぞれのお気に入りのカップにコーヒーを注ぐ。こぼさないようにお盆を水平に保ちながら、祖母の部屋に向かった。
「おばあちゃん、コーヒーできたよ」
「あらあら、ユリちゃんありがとう。まあ、いい匂い」
祖母は私からカップを受け取ると、カップに顔を近づけて、少女のように微笑んでいる。
「ユリちゃん、今日は学校は?」
「大学はもう春休みだよ。高校よりも春休みが長いんだねって、この前も一緒に話したでしょ」
「まあ、そうだったかしらね。おばあちゃん、忘れっぽいからいけないね。でも、ユリちゃんの淹れてくれたコーヒーを一緒に飲みながらお話しできるから、春休みもいいものだわね」
そう答える祖母と笑い合って、私たちは一緒にコーヒーを楽しんだ。
「おばあちゃん、何してたの?」
「ああ、これこれ。懐かしいわあ。何回見ても飽きないのね」
私は祖母の隣に座って、祖母の手元にある古いアルバムを一緒に覗き込んだ。そこには、若い頃の祖母の思い出の写真がつまっていた。どの写真の祖母も生き生きとしていて、表情には自信と若いエネルギーが満ちている。懐かしそうに写真を眺める祖母の少し下がった優しい目尻は、若い頃から変わっていない。子どもの時から、私が大好きな祖母の目だ。まわりから、「目元がおばあちゃんにそっくりだね」と言われると、いつも嬉しく誇らしい気持ちになった。
「あ、これって、おばあちゃんとせっちゃんだよね」
「どれどれ、ああ。そうそう。おばあちゃんとせっちゃんは、いつも一緒だったからね」
そこには、袴姿で二人並んで写真に収まる祖母と親友のせっちゃんの姿があった。あらためて見ると、せっちゃんは孫のハルコと瓜二つだ。私も髪を伸ばしたら、学生時代の祖母とよく似た雰囲気になりそうだ。今度、ハルコと二人で写真を撮って、将来私に孫ができたら一緒に見ようと想像していると何だか顔がにやけてきてしまう。
「おばあちゃんの袴の写真、めずらしいね。素敵だね」
「ありがとう。そうねえ、これは卒業式の時の写真だわね」
背筋をピンと伸ばした写真の中の祖母は、とても充実した笑顔を浮かべていた。ページをめくっていくと、私たち家族の思い出の写真が時系列に沿ってたくさん収められていた。
「ユリちゃんも、こんなに小さかったもんねえ」
着物姿の祖母に抱かれた七五三の時の写真を見て、祖母は懐かしそうに目を細めた。
「あ、これ!」
私は、小学生の頃の自分の写真が貼られたページの、最後の一枚を見て思わず声を上げた。そこには、袴姿のナゴミ先輩と、はにかんだ表情の私が写っていた。ナゴミ先輩は紫色の矢絣(やがすり)模様の袴を着て、小さなすみれの花束を両手で抱えていた。
「ユリちゃんが大事にしてた写真、おばあちゃんここに挟んでずっと大事にとっておいたのよ」
あの時の記憶がありありと蘇ってくる。ナゴミ先輩の小学校の卒業式の日の朝に一緒に撮った写真だった。私は、どうしてもお祝いをしたくて、前の日の夕方、母に頼んで花屋さんに連れていってもらった。私のお小遣いで買える花は限られていて、小さなすみれの花束を店員さんが作ってくれた。母は、「お母さんも一緒に買おうか」と言ってくれたけれど、私は自分で買った花束を贈りたかった。
卒業式の朝、学校に行く前にナゴミ先輩はいつものように私の家に寄ってくれた。小学校に入学してから、毎朝迎えに来てくれて、手を繋いで学校までの道を一緒に歩いた。三つ年上の先輩は、いつも私の憧れのお姉さんだった。その日の先輩は、すごくきれいでいつもと同じ優しい笑顔だった。でも、私は、ナゴミ先輩がずっと遠くに行ってしまうようで、「おめでとう」を言う前に泣き出してしまった。そんな私を、先輩はそっと抱きしめて、何度も「ありがとう」と言って私の頭を優しく撫でてくれた。
私がすみれの花束を渡すと、ナゴミ先輩は心から喜んで、
「私の袴と同じ色だね」
と、とても嬉しそうに笑ってくれた。そしてもう一度、「ありがとう」と私の肩を抱いてくれた。
あれから十年が経った。ナゴミ先輩と私はそれぞれの道を歩んできた。でもこの場所で、また先輩と後輩になれたことは、私にとってかけがえのない幸せだ。冬の初めに先輩と二人でドーナツとコーヒーを楽しみながら話したラウンジに一人腰掛ける。
高校三年生になって、進路に悩んで一人ではどうしていいかわからなくなってしまった時、勇気を出してナゴミ先輩に連絡をしたことを思い出す。受験をして、地元から離れた中学校に進学したナゴミ先輩は、私にとってすごく大人に見えて、何となく小学校の頃のように気軽に声をかけることができなくなってしまっていた。久しぶりに会った先輩は、あの頃と変わらない優しい笑顔で私を迎えてくれた。
高校の同級生たちは、英語を活かした仕事につきたい、看護の現場で活躍したいなど、将来の目標を持って、具体的に自分の進路をしっかり考えていた。そんな友人たちと話していると、ぼんやりとしかやりたいことが決まっていない自分のことが何だか恥ずかしくなってきて、他人に進路の話をすることに臆病になっていた。中学の時から自分で進路を決めて、大学で学んでいるナゴミ先輩は、私にとって眩しいくらい、まっすぐに自分の人生を歩んでいるように見えた。何度も先輩に相談してみようと思ったけれど、高校の友人たちに話す時と同じように、自分の進む先をきちんと見据えている先輩に、今の私の姿がどう映るのだろうと思うと、なかなか勇気が出なかった。
「ユリちゃんは、あの頃の私と一緒だね」
私の話を頷きながら静かに聴いてくれた先輩は、私の話が終わると、そう言って微笑んだ。
「え、どういうことですか?」
先輩の言葉の意味がわからずに、私は尋ねる。
「ユリちゃん、私のこと、そんな風に思ってくれてたんだね。でもね、本当はそんなに立派じゃないんだよ。中学受験を決めたのも、お母さんに勧められて、中高一貫の学校に進学したら周りの人たちがその後の進路も支えてくれるんじゃないかって、そんな他人任せな考えだったの」
驚いた表情の私に、先輩は頷いて話を続けた。
「でもね、高校卒業が近づいてきて、最後は自分の進路は自分で決めなきゃって思った。もちろん、先生も家族も周りの人たちはすごくサポートしてくれたけど、自分の気持ちが一番大事だなって、そう思ったんだ」
「それで、どうやって進路を決めたんですか?」
「オープンキャンパスに行って、いろんな先生や先輩の話をたくさん聴いたよ。その中で、すごく楽しそうにご自分の専門のお話をされる先生がいてね。聴いているこちらも何だか面白そうって気持ちになってきたの。その先生、心理学の先生だったんだけどね。お話を聞いた後で、『心理学を勉強すると、将来どんな役に立ちますか』って質問をしたの。特別に深い意味はなくて、素朴な疑問として自然にした質問だった。そうしたら、先生、う〜んって、すごく真剣に考えてくださって、何だか申し訳ない気持ちになって」
そう言って先輩はクスッと笑った。
「しばらく考えた後で、『きっと、人生を少しだけ豊かにしてくれます』っておっしゃったの。その言葉が当時の私にはすごく響いて、『何となく面白そうっていう理由で選んでも大丈夫ですか?』って尋ねたら、今度は『大丈夫。私もそう思って大学に入って、今でも面白くてずっと研究を続けているんですよ』って答えが返ってきた。何だか肩の荷が降りたというか、それからすごく自然な気持ちで進路と向き合えるようになった気がするよ」
先輩の話を聴いて、私もオープンキャンパスに行ってみようと思った。そして、その時から、また先輩と同じ環境で勉強できたらいいなと思うようになった。
憧れの先輩と同じ大学で勉強したいからという進路の選び方は、目標のはっきりした友人たちと比べると、正直少し後ろめたい気持ちがあったけれど、ナゴミ先輩と話して清々しい気持ちになった。きっかけは人それぞれ。最初のきっかけと勇気をくれた先輩に私は心から感謝した。
(後編に続く)
作:加藤大樹
------------------------------------------------------------------------------------
前編あとがき
編集者兼カメラマンの強子です。「すみれ」前編、お楽しみいただけたでしょうか。今回のあとがきでは、卒業袴の柄の意味に少し触れつつ、撮りだめてきた過去の学位記授与式の学生さんの袴姿の画像をお届けします。
例年学位記授与式での袴の柄は、椿や梅、桜といった縁起の良い柄や、実際の季節を少し先取りした粋とされる牡丹の柄などが多くみられます。
今回の話にも出てきた「矢絣(やがすり)柄の意味は、どんな意味があるのかご存知でしょうか。レトロなかわいらしさや、漫画『はいからさんが通る』の主人公のイメージが強いですが、実は縁起物として支持されているんです。
矢絣とは、矢羽根をモチーフにした絣織物のことです。矢は一度放たれると戻らないことから、「未来に向かって真っすぐ進む」という意味が込められています。卒業という人生の節目にピッタリな柄ですね。また、昔から矢は魔除けの道具として使われていました。そのため、矢絣柄の着物を身につけることで災いを遠ざけるという意味もあります。
卒業式の袴に矢絣柄を選ぶのは、単にかわいいだけでなく、こういった意味があったんです。
今回のあとがきはここまで。
矢絣柄の意味を思い浮かべながら後編を読むのもいいかも知れません。
後編もお楽しみに!



