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あの大作曲家の意外な一面とは?

子どもたちとクラシック音楽の
豊かな出会いを願って。

数百年にわたる歴史があり、世界中の人々に聴き継がれ、愛され続けているクラシック音楽。

そのクラシック音楽に初めて触れるのが、小学校の音楽の授業である子どもも少なくありません。

一般的に堅苦しい、とっつきにくいと思われがちなクラシック音楽への印象を持たせない様に、カスタネットでリズム遊びをしたりなど、さまざまな工夫を授業に取り入れますが、作曲家のエピソードや曲が生まれた背景、想いなどを話すことも、子どもたちの大きな興味を惹きます。

そう、先生は子どもたちとクラシック音楽との出会いのキューピッドでもあるのです。

そこで今回は、クラシック音楽の偉大な作曲家3人(バッハ・ベートヴェン・ショパン)に焦点を当て、作曲家の人となりや、作品にまつわるエピソードをご紹介します。

バッハの死後100年経って脚光を浴びた
「G線上のアリア」。

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750年)

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750年)はドイツの作曲家で、オルガンやチェンバロの名手でもありました。
生涯で作曲した作品は1,000曲以上。

西洋音楽の基礎を築き、後世の音楽家たちに大きな影響を与えたことから、「音楽の父」と呼ばれています。

性格的には非常に真面目で勤勉だったそうですが、音楽に対しての情熱が強いあまり、演奏家や宮廷関係者とのトラブルが絶えなかったと言われています。

また、バッハは生涯で2度結婚し、授かった子は20人。家族への愛情は深く、妻や子どもたちのために多くの練習曲を作曲したそうです。

「ブランデンブルグ協奏曲」、「平均律クラヴィーア曲集」、「マタイ受難曲」など、代表曲はいくつもありますが、そのひとつに「G線上のアリア」があります。

「G線上のアリア」は「管弦楽組曲第3番」と呼ばれる組曲の中の1曲で、もともとはヴァイオリン独奏のものではなく、弦楽合奏で演奏される曲でした。

それを後世のヴァイオリニスト、アウグスト・ヴェルヘルミが、ヴァイオリン独奏用に編曲したのがこの曲で、ヴァイオリンの4本の弦の中で一番低い弦(G線)1本で弾けるようにアレンジしたことから「G線上のアリア」と呼ばれるようになりました。

この曲はバッハの生前はあまり評価されず、死後100年経ってから人気が出始め、荘厳で美しいメロディは今も世界中の人々に愛されています。
 

「エリーゼのために」は、「テレーゼのために」だった?

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827年)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827年)は古典派音楽からロマン主義音楽への移行期に活躍したドイツの作曲家・ピアニストで、革新的で自由な表現を持つ作品は後継者たちに大きな影響を与えました。

彼は20代半ばぐらいから難聴に悩まされ、30代でほとんど聞こえなくなったと言われています。作曲家にとって命ともいうべき聴覚を失いながらも、溢れる創意と情熱で、交響曲「第9」や「運命」、「英雄」など数々の傑作を生み出し、音楽を芸術の粋にまで高めました。

彼は生涯独身でしたが、人生の中で何度も恋愛をし、多くの名曲を大切な女性たちに捧げています。そのひとつが、エリーゼという女性を思い、作られたという「エリーゼのために」です。

このエリーゼとは誰なのか諸説ありますが、最も有力な説はイタリアの女性「テレーゼ(Therese)」で、ベートーヴェン自筆の楽譜に書かれていた「テレーゼのために」という文字があまりにも悪筆で、出版社が「エリーゼ(Elise)」と読み違えたまま出版してしまい、「エリーゼのために」と言われるようになったというものです。

また、ベートーヴェンが照れ隠しでエリーゼにしたという説もあります。

テレーゼとの恋は成就しませんでしたが、偏屈で気難しいイメージのベートーヴェンにもこんな微笑ましい一面があったと思うと、なんだか親近感がわいてきますね。
 

ショパンの音楽人生に大きな影響を与えた男装の麗人とは?

フレデリック・ショパン(1810~1849年)

フレデリック・ショパン(1810~1849年)はポーランド出身の作曲家・ピアニストで、39年という短い生涯の中で、「夜想曲」、「幻想即興曲」、「英雄ポロネーズ」など、美しく独創的なピアノ曲を世に送り出し、「ピアノの詩人」と呼ばれています。

4歳頃からピアノを弾き始め、7歳でピアノ曲を作曲するなど神童ぶりを発揮しますが、一方で、物まねや似顔絵を描くことも得意で、学校ではクラスの人気者だったそうです。

20歳のとき、ショパンは故郷のポーランドを離れ、パリを拠点に演奏活動を始めます。
彼の気品のある佇まいと美しい音楽に魅了された聴衆は、瞬く間に彼をパリ音楽界のスターに押し上げました。

そんなショパンは26歳のとき、7歳年上の女流作家、ジョルジュ・サンドと出会い、恋に落ちます。

ジョルジュ・サンド(1804〜1876年)

サンドは「男装の麗人」、「恋多き女」として知られ、内向的で繊細なショパンとは対照的な性格でしたが、ショパンはサンドの献身的な支えによって作曲活動に専念することができ、次々と名曲を生み出しました。

愛らしく、軽快なリズムで人気の「子犬のワルツ」もそのひとつで、サンドが飼っていた子犬が自分の尻尾を追ってぐるぐる回る様子を見て、それを「音楽で表現してほしい」と頼んだことから、ショパンが即興で作ったと言われています。


ショパンとサンドの恋愛は、サンドの子どもとショパンの不和などさまざまな波乱があったものの、9年も続きました。でも、やがて別れのときを迎え、ショパンはその2年後に帰らぬ人となりました。
 

今回ご紹介したお話は数あるエピソードのほんの一部ですが、子どもたちはこうしたエピソードに触れることで、音楽を聴きながら情景を浮かべたり、物語をイメージするなど、想像力をどんどん膨らませていきます。

子どもたちとクラッシック音楽の出会いをつくることは、音楽への理解を深めるだけでなく、子どもたちの感性を育み、人生を豊かにする心の種まきでもあるのです。

子どもの可能性を見つめ、健やかな成長を助ける。
それが人間科学部 現代子ども教育学科
 


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