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パラリンピックの起源は、病院で開かれたアーチェリー大会!?

40限目 パラリンピックの起源
『パラリンピックは病院で始まった!?』
人間科学部 コミュニティ福祉学科

2012年7月掲載「車内の金城学院大学」

世界のトップ選手が集う、パリ2024パラリンピック。

パリ2024パラリンピックのマラソンコースは、凱旋門を含む数々の名所を巡ります。

この夏、フランス・パリを舞台に、障がい者スポーツの祭典「第17回パラリンピック」が開催されます。

大会期間は、2024年8月28日から9月8日までの12日間。

185の国と地域から約4,400人の選手が参加し、22競技549種目を実施。日本からも160人以上の選手が参加し、世界のライバルたちと技と力を競います。

パラリンピック(夏季・冬季大会とも)は4年に一度、オリンピック終了後に同じ場所で開催されますが、実はパリでパラリンピック夏季大会が開催されるのは初めてのこと。(冬季は1992年の第5回大会としてフランスのティーニュとアルベールビルで開催されました)

パリ大会では、オリンピックとパラリンピックの大会エンブレムを統一するなど、国をあげて障がい者と健常者の垣根をなくす努力をしていること。また、ペットボトルの持ち込みは原則禁止など、史上初の「使い捨てプラスチックのない大会」をめざしていることにも注目が集まっています。

では、パラリンピックは、いつ、どのようにして始まったのでしょうか。
  

負傷兵の治療とリハビリから始まったパラリンピック。

パラリンピックの起源は、1948年、イギリスのとある病院で開かれた、参加者16人のアーチェリー大会です。
 
第二次世界大戦が激化する1943年、戦争で脊髄損傷を負う兵士が増えることを見越したイギリス政府は、兵士の治療と社会復帰を目的に、ロンドン郊外にあるストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷センターを開設しました。
 
初代センター長のルードウィッヒ・グットマン博士は、それまでは「不治の病」とされた脊髄損傷の治療に専念し、生存率を大幅にあげました。
 
さらに、治療とリハビリに車いすのポロや卓球などのスポーツを取り入いれることで仲間づくりや社会参加をうながし、戦争で傷を負った兵士たちの心の健康を支えようと考えました。
 
スポーツによって尊厳を回復し、生きる喜びを取り戻していく兵士たちの姿を目の当たりにしたグットマン博士は、1948年7月29日、ロンドンオリンピックの開催にあわせて、病院内で車いす患者16名によるアーチェリー大会を開きました。
 
大会はその後もストーク・マンデビル大会の名称で毎年開催。競技種目も参加者も増え、1960年、オリンピック開催地のローマで開いた大会には、23カ国から400人の選手が参加。この大会は、1989年の国際パラリンピック委員会(IPC)設立後、さかのぼって第1回パラリンピック大会と位置づけられました。
 

日本のパラリンピックの父、中村裕。

パラリンピック、第2回目の舞台は東京。

この東京1964パラリンピックの開催に大きな役割を果たしたのが、中村裕博士です。

大分県で整形外科医をしていた中村博士は、1960 年に留学先でグットマン博士と出会い、脊髄損傷の患者が半年ほどで社会復帰していく姿に衝撃を受けました。当時の日本の脊髄損傷患者の治療は「安静が中心」だったからです。

帰国後、中村博士は「障がい者にスポーツなんて」という人たちを説き伏せながら障がい者の自立支援とスポーツに情熱を注ぎ、1961年に大分で日本初の身体障害者体育大会を開催。

1962年にはストーク・マンデビル大会に2名の日本選手を派遣するなど、障がい者スポーツ振興の機運を高めながら、東京1964パラリンピックの開催につなげていきました。

この東京大会をきっかけに、1965年から毎年、全国身体障害者スポーツ大会(現在は全国障害者スポーツ大会に名称変更)が開かれるようになり、身体・知的・精神の障がいのある方が一体となって活躍する大会へと発展しています。
 

世界最高峰の障がい者スポーツ大会へ。

パラリンピックは、その後も回を重ねるごとに参加国と競技種目が拡大。出場者も、車いす使用者から、手足を失った人や目の不自由な人、脳性まひの人まで対象が広がり、競技レベルも飛躍的に向上しました。

イギリスのいち病院で始まった小さな競技会は、今や世界中の国から4000人以上が集まる世界最高峰の障がい者スポーツ大会に発展。

多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮して活躍できる場として、また、社会の中にあるバリアを減らしていくことの必要性や、減らすための発想の転換が必要であることにも気づかせてくれる場として、パラリンピックの意義はさらに深まっています。

そして、2024年夏。

パリパラリンピックがいよいよ幕を開けます。

「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」
 
グットマン博士が障がい者たちにかけ続けたこの言葉に励まされ、背中を押されたパラアスリートたちが創意工夫を凝らして自らの限界に挑む姿は、きっと私たちの心を揺さぶり、勇気を呼び起こしてくれるに違いありません。
 
スポーツを通して人が支え合う社会をつくる
それが人間科学部 コミュニティ福祉学科
 

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参考文献

日本パラリンピック委員会|「パラリンピックとは What is the Paralympics?
日本パラスポーツ協会|「障がい者スポーツの歴史と現状
笹川スポーツ財団|「パラオリンピックの歴史を知る
 日本パラサポ財団|「パリ2024パラリンピック特設サイト
 


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