世界遺産誕生のきっかけはダム建設?
国際政治の荒波にもまれたアスワン・ハイ・ダムの建設
エジプトのナイル川流域に巨大なアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったのは20世紀半ばのこと。
毎年のように起こるナイル川の氾濫防止と農業用水の確保が目的でした。
大規模な工事を伴うこのダム建設には巨額の資金が必要で、エジプト政府はイギリスとアメリカから融資の約束を取り付けていました。
しかし、当時のエジプト大統領、ナセルの外交政策に反対する両国は融資の申し出を撤回。
ナセル大統領はダム建設の資金確保のために、イギリスとフランスが管理していたスエズ運河の国有化を宣言します。
この措置に反発したイギリスとフランス、イスラエルはエジプトへの軍事侵攻を開始し、「スエズ動乱(1956〜57)」が勃発。
3カ国は国際社会の厳しい非難を浴び、エジプトから撤退。エジプトはスエズ運河の国営化に成功します。
最終的にアスワン・ハイ・ダムはソ連の援助を得て1960年に着工しますが、その一方で大きな問題が発生しました。
ダムの周辺には「アブ・シンベル神殿」に代表されるヌビア遺跡群が点在し、ダムが完成すれば水の底に沈んでしまうことがわかったのです。
ヌビア遺跡を水没の危機から救おう!
古代エジプト文明の貴重な文化財が水没の危機にさらされている。
この状況に危機感を持ったユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は1960年、「ヌビア遺跡群の救済キャンペーン」を開始し、遺跡の移築と保護を世界中に呼びかけました。
この結果、日本を含む世界60カ国が技術や資金を援助。
「アブシンベル神殿」をダム建設の影響を受けない丘の上に丸ごと移築し、水没を免れることができました。
世界各国の考古学者や技術者が利害関係を超えて協力しあい、成功に導いたこのプロジェクトをきっかけに、「未来に残していくべき遺跡や自然を、国際的に守っていこう」という機運が高まり、やがて「世界遺産条約」の創設へとつながっていきます。
世界遺産は守り伝えていくべき人類共通の遺産。
世界遺産条約は、人類共通の宝物である文化遺産や自然遺産を保護・保存していくための国際体制を築く国際条約で、1972年のユネスコ総会で採択されました。
締結国は2022年5月現在で194カ国。
日本は1992年に締結しました。
世界遺産には、
文化財を対象にした「文化遺産」
自然を対象にした「自然遺産」
文化と自然の両方の価値を持つ「複合遺産」の3種類があります。
2022年12月現在で、1,154件(文化遺産897件、自然遺産218件、複合遺産39件)の世界遺産が登録されており、そのうち日本の世界遺産は25件(文化遺産20件、自然遺産5件、複合遺産0件)となっています。
世界遺産は心の中の平和の砦。
この言葉が示しているように、ユネスコは世界の平和と幸せを築くことに貢献するために創設された国際連合の専門機関です。
そのユネスコで採択された世界遺産を守り、未来の世代に継承していくことは、世界の国々の多様な文化や歴史、自然を理解し、大切にすることであり、「人の心に平和の砦を築く」ことにつながっています。
世界遺産創設のきっかけとなったヌビア遺跡も、国同士では争いましたが、さまざまな国の考古学者や技術者たちが国家の枠組みや政治的対立を超えて遺跡保存のために奔走。
こうした活動が平和や相互理解につながるということを証明しました。
また、世界遺産は観光資源としても注目されていますが、それも平和な社会や暮らしがあって初めて成り立ちます。
紛争や貧困、汚染、無計画な都市計画などがあれば、遺産の存在すら脅かされてしまいます。
人類共通の遺産を守り伝えていくことは、平和な社会への第一歩。
戦争やテロが現実のものとなっている今だからこそ、私たち一人ひとりが世界遺産の意義を学び、その活動の輪を広げていくことが大切なのです。
世界の結束力を知り、豊かな国際社会を描く。
それが国際情報学部 国際情報学科 グローバルスタディーズコース
2015年1月掲載 『車内の金城学院大学 70限目』 はこちら