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綿花畑で生まれ育った音楽?

78限目 労働歌とアメリカ音楽
『綿花畑から生まれた音楽?』
文学部 英語英米文化学科

2015年9月掲載「車内の金城学院大学」

ヨーロッパ人の手によってアフリカ大陸から連れ去られ、「貨物」として奴隷船に積み込まれ、北アメリカのヴァージニア植民地に運ばれた20人の人々。

これがアフリカ系アメリカ人(アメリカの黒人)の歴史のはじまりです。

1619年のことでした。
 
その後、ヨーロッパとアフリカ大陸、南北アメリカ大陸とカリブ海諸島を結んで行われた「三角貿易」で、奴隷とされたアフリカの人々は主要な「交易品」のひとつとなり、「黒人奴隷制度」がアメリカ各州で法制化され、アフリカからたくさんの人が強制的に連れてこられました。
 
当時、アメリカの南部における綿花やタバコ、サトウキビなどを主要作物とする大規模プランテーション農業の成立には、アフリカ系の奴隷とされた人々の存在が不可欠でした。
 
農園での生活は過酷で、夜明けから日没まで働かされる毎日。

食事も衣類も住居も最低限のものしか与えられず、南部の多くの州では読み書きも禁止されるなど、人間としての扱いを受けていませんでした。
 
そんな虐げられた人々の生活の中から生まれたのが、労働歌と黒人霊歌(アフリカン・アメリカン・スピリチュアル)です。
 

人間としての尊厳、喜びや哀しみを歌に託して

労働歌は、奴隷とされたアフリカ系の人々が奴隷労働の辛さを少しでも和らげるために歌った歌で、綿花を摘みながら、土を耕しながら、規則的なリズムに合わせて歌うことで、極限状態のなかでもなお生きていく力を絞り出していました。
 
労働歌の中にはひとりで即興的に歌う「フィールド・ハラー(野の叫び)」と言われるものもあり、過酷な状況にあっても人としての尊厳を失わず、様々な感情、特に哀しみを歌に託し、語りかけるように歌いました。

エモーショナルなその曲調はブルースの起源とも言われています。
 
一方、農園主にとって、奴隷は欠くことのできない「資産」であり、奴隷監督は馬に乗って広大なプランテーションをくまなく監視していました。

場所を移動したすきに作業を中断したり、逃げ出したりしないようチームで労働にあたらせ、歌を歌わせることで、作業状況を確認していました。

リーダー役が第一声をあげ呼びかけると他のメンバーが合唱で応答する“call and response“の原型はここから生まれました。
 
労働歌には、やり場のない怒りや苦しみ、哀しみを軽減するために歌う、農園主に強制されて歌う、という2つの側面があったのです。
 

労働歌と黒人霊歌は、やがて
ブルースやゴスペル、ジャズへと発展

奴隷にされた人々には信仰の自由もなく、農園主から強制的にキリスト教に改宗させられました。

農園主の都合のいい形に歪められた「キリスト教」ではありましたが、聖書の言葉にふれ、賛美歌を歌う中で、彼らは本来の聖書の教えにたどり着き、自分たちなりに解釈し直し、それを言葉にしてメロディに託しました。

これが黒人霊歌です。

やがて彼らは歌詞の中にキリスト教への信仰とともに密かに別の意味も込めるようになりました。

例えば「行け、モーゼ」という歌の歌詞は旧約聖書の「出エジプト記」に描かれた囚われの身のイスラエルの民の解放に自らの解放を結び付けて、「奴隷制のない場所に行きたい」という心情を表していました。

また、「天国に行きたい」は、

「プランテーションで死ぬまで働かされるのはもう耐えられない。(アメリカの)北部や(奴隷制度のない)カナダに逃げ出そう」

という逃亡の意志を伝えるものでもありました。

プランテーションから生まれた労働歌や黒人霊歌は、互いに影響し合いながらそのスタイルを変え、ブルースやゴスペル、ジャズ、R&B、ロックなど、さまざまなジャンルの音楽へと発展。

労働歌で用いられた “call and response” といった歌唱スタイルも、今に受け継がれています。
 
こうした音楽の歴史はそのまま、非人道的な奴隷制の時代を生き抜いてきたアフリカ系の人々とその子孫であるアフリカ系アメリカ人の歴史であり、そこには、いくら踏みにじられても、抑圧されても、失われない人間の命の輝き、普遍の美しさが宿り、聴く者の心を打ちます。

 

歴史や文化を学ぶことで、世界を知る。
それが文学部 英語英米文化学科


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